嘘をついたり誤魔化したりしても、正直な日本人は昔からこう呟く・・・
「あんた、それ、神さん見てはるで・・・」と、
世に賢者はいない、しかし日本人の真実を見通す神さんは人々の心の中に存在する・・・
時は1855年「第1回パリ万国博覧会」のパリ市内・・・
公式絵画会場近くに、博覧会に落選した一枚の絵画が飾られ、入り口にパリ万国の入場料と同額の1フランとかかれている。その、高さ361cm x 幅598cmの巨大なキャンバスの作品は、「画家のアトリエ」副題は<我が芸術的生活の七年に及ぶ一時期を定義する現実的寓意画>と記されていた。
画家の名は「ギュスターヴ・クールベ:Gustave Courbet(1819年~1877年)」彼はこの時、既成の画壇に反発し、レアリズム”Réalisme”=写実主義”を宣言する・・・
そして云う「現実に見たものだけを描く」と、それは写実主義の絵筆をもって「Real=写実」を描き、しかも何を持って時代の「Real=写実=真実」を民衆に問い続けたのだろうか?・・・
そして、我々日本人の心にはどう響いているのだろうか?・・・(クールベ36歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・クールベ
"L'Atelier du peintre. Allégorie réelle déterminant une phase de sept années de ma vie artistique et morale." ● ↑(画面クリックで拡大します・・・) 1855年|油彩 カンヴァス|361cm x 598cm|オルセー美術館|Musée d'Orsay, Paris ギュスターヴ・クールベ:Gustave Courbet(1819年〜1877年) https://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・クールベ https://ja.wikipedia.org/wiki/画家のアトリエ |
左側にナポレオン三世によって踏み躙られ苦しみに生きる人々を描いていると云われている・・・
ギュスターヴ・クールベは、1819年、スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方(Franche-Comté)の山の中、オルナン(Ornans)に、裕福な地主の子として生まれ、オルナンのカトリック系中学校に入学し、そこで基本的なデッサンを学び、1837年、王立の高等学校に入学する。
←「オルナンの埋葬」1849 オルセー美術館
そのかたわら画家フランジューロのもとで学び、1840年、21歳の時にパリへ出てソルボンヌ大学法学部に入学するが、本人を法律家にさせたかった父親の意図に反し、彼自身は画家を目指してアカデミー・シュイスに通い、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写する・・・
「石割人夫」(1848)ドレスデン爆撃(1945年)で焼失 →
そして、モンペリエの裕福な銀行家の息子で、アートコレクターのアルフレッド・ブリュヤスに出会い、彼は友人となりクールベに心酔し後援者となる・・・
(真ん中の帽子を持つ人物)
←「出会い - こんにちは、クールベさん」(1854年) ファーブル美術館
マリーアントワネットがギロチンで死してから、長々とつつづく革命中のパリ・・・
大量の工業生産が押し寄せ始めた西欧の次への時代、新たな階級層、ニューブルジョアが生まれだし、時代は大きく変わり始めていた・・・
そのフランスは、ナポレオン・ボナパルトの甥にあたフランス第二帝政の皇帝ナポレオン3世を迎えていたが、しかしそれは、「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷き、格差社会で喘ぐ民衆の日々、皆が楽しく生きていく世を求めていくにも関わらず、民衆たちの哀れな日々、画家は絵筆を込めて、誰が、何が悪いのかを語りかける・・・
民衆の求める現実を知らずして真の政治家と言えるのだろうか?
そこに民衆が楽しく生きる今と、かけ離れた現実の「Real=写実」が存在する。画家は在るものを正しく正確に描いただけでは無い、その絵の持つ意味、それには、深い思惟が埋め込まれていた。
皇帝ナポレオン3世:Napoléon III →
(在位:1852年 - 1870年)
シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)
「美」の時代も・・・
ドラクロワのロマン主義から、クールベの写実主義へ、そしてコロー、ミレーのバルビゾン派と続く時代の流れのなかで、1874年に開かれた、30名の画家たちが165品を展示した第1回印象派展が生まれる前夜・・・
そして、1870年に勃発した普仏戦争(1870年~1871年:明治2~3年)でフランスのナポレオン3世はセダンの戦いに敗れ、降伏して捕虜となりイギリスへ亡命し、フランスの第二帝政は終焉する。だがしかし、プロイセンとの和平交渉に反対し自治政府を宣言したパリ・コミューン(la Commune de Paris 1871)は、1871年3月18日から同年5月28日までの短期間パリを支配し、約2ヶ月後にヴェルサイユ政府軍によって参加者は大量虐殺後鎮圧され「血の一週間」と呼ばれている。1870年当時、パリ・コミューン(コミューン美術委員会議長になっていた)に参加していたクールベは、反乱に加担し、ヴァンドーム広場の円柱破壊事件の責任を問われて逮捕され、莫大な費用の支払いを命じられる・・・
← クールベは有罪判決を受け、1877年5月4日にはヴァンドーム広場の再建費用の見積額が伝えられた。その額は323,091フラン、68サンチームだった。クールベは91歳の誕生日までの33年間、毎年10,000フランを分割で支払う罰金刑が言いわたされた。
[パリ・コミューン]
(la Commune de Paris 1871)
普仏戦争(1870年〜1871年:明治2〜3年)に敗れたフランスは、プロイセンとの和平交渉に反対し自治政府を宣言し、1871年3月18日から同年5月28日までの短期間パリを支配し、約2ヶ月後にヴェルサイユ政府軍によって参加者は大量虐殺後鎮圧され「血の一週間」と呼ばれている。画家たちも、モネとピサロはロンドンへ渡り、バジールは戦死、ルノワールは騎兵隊に、ドガは砲兵隊、マネは国防参謀本部などへ出兵している・・・
印象派の始まりの頃、クロード・モネが、1865年〜1866年にカミーユと印象派の人々から愛されていたギュスターヴ・クールベをモデルに描いた「草上の昼食」・・・
1866年のサロンに、マネの1863年作の著名な作品「草上の昼食」と同じテーマの作品を出品することを予定し、縦4メートル、横6メートルを超える大作は、サロン出品の締切までに制作が追いつかなかったが、画面中央部に座っている、ギュスターヴ・クールベと白いドレスのカミーユにあたる木漏れ日は、あのルノワールもびっくりと云える程美しい。その後この作品は破損し、白く縁どられた絵が現在オルセーに残って、縮小サイズの下絵がプーシキン美術館に残っていて、それと下絵との合成写真が以下 ↓・・・
"Le Déjeuner sur l'herbe" (プーシキン美術館に残っている全体画像と合成写真で濃い部分はオルセー美術館のものです) 上の全体図が「草上の昼食」がプーシキン美術館に残っている習作の下絵 1865年|130 x 181cm| 油彩・キャンバス|プーシキン美術館蔵 1865年〜1866年| 油彩・キャンバス|約・縦4m x 幅6m (制作時のサイズ) クロード・モネ:Claude Monet (1840年〜1926年) <草上の昼食・ブログ内関連記事> 左のはしに立っている男性は経済的に助けてくれる画家で友達の資産家のバジール) |
ではその後、今の我々にとつて「Real=写実」とは何なのだろうか?
SNSが浸透し、情報が密で噂ごときではない早さ、
しかも総て人間の五感を通し「Real=写実」が隅々まで届くこの時代・・・
表層の出来事よりその中身、我々は嘘か誠か、即それを知り得る。
それは正に民主主義の当分な一票かのように、
しかも昨今において、よりその精度を上げ、人々は今の政治や行政等の手法をチェックして、
選挙の人数差、文書を黒塗りで覆い隠して時を動かしても真実は変わらない、
民衆は何が真実かを、そしてもっと正確にその時代の「Real=写実」を知っている・・・
オルセー美術館のクールベーのコーナーの入り口に、目を覆い隠す様な絵が存在する。 それはネットでもあげずらい一枚・・・ 女性の深部を正確に描いた横たわる裸体画がある。 『世界の起源』(1866) |46 x 55cm|オルセー美術館 https://ja.wikipedia.org/wiki/世界の起源 言ってる事は正しいが、明らかに眼をそらせ、苦笑するしかない。 彼の写実主義”Réalisme”「自分が見たものだけを描き切る」= 写実主義(レアリスム)、 そこまでも描かんでもと、思うなあ〜・・・ そして印象派を誘発し、古い絵画手法を飛び越えた波の盛り上がったマチエール。 La Mer orageuse dit La Vague" 1870年|油彩 カンヴァス|117x160,5 cm|オルセー美術館蔵|Musée d'Orsay,Paris France Mer en automne (1867), Kurashiki, musée d'art Ōhara. Courbet a peint de nombreuses vagues, qui, au fil des années, sont saisies frontalement. .................................................................................................................................. ギュスターヴ・クールベ(クルベ):Gustave Courbet(1819年〜1877年) https://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・クールベ 彼は「Real=写実」をもって、 過去のらしきものを現実の「Real=写実」に変えて行く、 そしてモノのあり方や生き方、政治そのものの真実を世に問い正す・・・ オルセー美術館の彼の部屋からは、 我々が目を逸らしていた過去の時代の本当の価値観が見えて来る・・・ |
1877年12月31日、ギュスターヴ・クールベは大量の飲酒による肝臓病が原因で58歳の生涯を閉じた・・・
現在オルナンの生家は現在クールベ美術館)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロマン主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/写実主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/バルビゾン派
https://ja.wikipedia.org/wiki/普仏戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/パリ・コミューン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ナポレオン3世
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァンドーム広場
パリ、血の一週間
http://www.kobemantoman.jp/sub/105.htm
― パリ・コミューンをみた日本人(Adobe PDF) - htmlで見る
repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/8832/.../60-4miyanaga1.p...
普仏戦争(ふふつせんそう、仏: Guerre franco-allemande de 1870、独: Deutsch-Französischer Krieg)は、第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、プロイセン=フランス戦争と呼称している日本の世界史の教科書もある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/普仏戦争
モンマルトルのサクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)
第三共和政の憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味合いを籠めて、政府による直接的な支援を受けて建設がはじまった。当時は普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンによって命を失ったフランス市民を讃える公共建造物としても考えられていたが、年月が過ぎるにつれてその位置づけが自ずと変容してしまう・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/サクレ・クール寺院
フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい、La troisième République)は、普仏戦争さなかの1870年に樹立したフランスの共和政体である。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー・フランス成立まで存続した。
黎明期の第三共和制議会は君主制の復権を掲げる勢力が多数を占めていたが、その君主の性質などをめぐりボナパルティストおよび王党派様々な対立があり機を逃した。最終的にレジティミストの推すシャンボール伯アンリが1883年に没すると世論は共和政容認が大勢となり、選挙でも共和派が多数を占めた。結果として、王政復古の望みは潰えて「共和政」の名が公的に現れるようになった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランス第三共和政
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