エドゥアール・マネの「オランピア」 パリっ子と江戸っ子
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1863年パリ画壇にそんな女性を描いた一枚の絵が登場する。
絵はサロン(官展)に入選するも、もともと裸体画は神話や宗教から素材を取り、理想化されたヴィーナスやニンフ、天使などであったにもかかわらず、当時の基準となるアカデミー画家の風潮とは明らかに異なり、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の構図がそっくりのパロディー版の様に・・・
しかも当事の娼婦に多く用いられた通称である「オランピア」(Olympia)と題され、人々に露骨で強くエロスと背徳感を抱かせ卑猥な作品として非難の的となった。
そしてその後、この絵は画家マネのアトリエで静かに眠り続け、死後の1890年アメリカへ売却されるのをモネら印象派の画家たちによる募金運動で流出を逃れ今はオルセー美術館に飾られている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/エドゥアール・マネ
エドゥアール・マネ:Édouard Manet (1832年~1883年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/オランピア_(絵画)
"Olympia" ● ↑(画面クリックで拡大します・・・) 1863年|130.5 x 190 cm|油彩・キャンバス|オルセー美術館蔵|Musée d'Orsay, Paris https://ja.wikipedia.org/wiki/オランピア_(絵画) エドゥアール・マネ:Édouard Manet (1832年~1883年) |
当時のサロン(官展)の応募作品数は5000点余りで、その内2783点が落選と云う記録があり、当然サロン(官展)に入選しなければ画家は死活問題となり、有名な画家であっても依頼者はおろか値段は暴落し絵の価値は下がる。マネが同年描いた作品の「草上の昼食」は、男性の方はきちんとした服装をし、草の上に座る女性が全裸であることから、アカデミズム絵画の歴史主義に反して不道徳な作品として厳しい非難を浴びて落選している・・・
たがしかし、このサロン(官展)の流れを時代がおおきく変えていく・・・
"Le Déjeuner sur l'herbe, The Luncheon on the Grass" (当初の題は「水浴」) ● ↑(画面クリックで拡大します・・・) 1862年〜1863年|油彩、キャンバス|208 cm × 265.5 cm|オルセー美術館蔵|Musée d'Orsay, Paris 1863年サロン落選、落選展展示d'Orsay,Paris https://ja.wikipedia.org/wiki/草上の昼食 エドゥアール・マネ:Édouard Manet (1832年~1883年) |
エドゥアール・マネ
Édouard Manet(1832年〜1883年)
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エドゥアール・マネは、1832年(天保3年)ルーブル美術館があるセーヌ川の対岸、ボナパルト通り5番地:N°5 rue Bonaparte(旧:プティ=ゾーギュスタン通)に、父は法務省の高級官僚で母は外交官の娘の間に生まれ、生粋の「パリっ子」(男性形=Parisien)として弟が2人いる裕福なブルジョワジーの家庭に育っている・・・
セーヌ川を挟んだルーヴル美術館や家の前の国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール:École nationale supérieure des Beaux-Arts, ENSBA)など、古本屋、画廊や工芸品が立ち並ぶ、カルチエ・ラタン(Quartier latin)に育ち、芸術家の道に反対する両親の意向を受け、水兵になるため海軍兵学校の入学試験を受けるも落第し、1848年実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海している。1849年に再び海軍兵学校の入学試験に落第し、芸術家の道を歩むこととなる・・・
1849年秋頃からトマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業し、29歳のマネは1861年に「スペインの歌手」がサロンに入選し時代に登場する。1864年、マネはバティニョール大通り34番地に引っ越し、絵のほんとうの意味を模索し、過去の価値から離れた自由な制作活動を始める・・・
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サロンに初入選「スペインの歌手」1860年|油彩、キャンバス→
147.3 × 114.3 cm|メトロポリタン美術館蔵
Café Guerbois「カフェ・ゲルボワ」
クリシー大通り9番地:9, avenue de Clichy, 17e
https://fr.wikipedia.org/wiki/Café_Guerbois
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バティニョール通り(現在のクリシー大通り)の「カフェ・ゲルボワ」に、マネを中心にサロン(官展)に不満を持つルノワール、ドガ、シスレー、バジール、ピサロ、セザンヌ、モネなど若手の画家が毎週金曜の夜にこのカフェに集まり芸術論を交わし「バティニョール派」と呼ばれ、後に印象派となって美術史の新たな1ページが刻まれていく・・・
← Au café, d'Édouard Manet,1869年 (26,3 × 33,4 cm)
National Gallery of Art, Washington D.C.
時代は・・・
王政・君主政・共和政を繰り返し、目まぐるしく変化し、時代の軸足は貴族から新興のブルジョワジーへと動いていた。しかも産業革命の波が押し寄せ、1852年にボン・マルシェ百貨店、1865年にオ・プランタンが、鉄道のパリ北駅が完成する。しかし、当時の女性の職業はお針子ぐらいでほとんど無く、且つ高額収入は程遠く、街には高級娼婦がたむろし、1830年の7月革命でフランス国王となったルイ・フィリップが、1831年に「娼婦追放命令」を出し、パリ警察調べで5000人の娼婦が登録され、登録外は3万人をこえ、法令で売春の盛り場のパレ・ロワイヤルを締め出された娼婦たちは、ジュフロワやパノラマにヴェルドーなど雨や雪でもガラス屋根のあるパサージュにたむろしていた・・・
1856年(安政3年)パリの版画家ブラックモンが陶器の包装に使われていた「北斎漫画」を発見し、これを友人の画家マネ、ドガ、ホイッスラーなどに伝え、やがて後の印象派たちの間で「浮世絵」からジャポニスムブームが巻き起こる・・・
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「エミール・ゾラの肖像」1868年|オルセー美術館蔵 →
「パリっ子」と「江戸っ子」・・・
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「パリっ子」と呼ばれた、パリジェンヌ(女性)やパリジャン(男性)のパリ市民・・・
「浮世絵」にぶつかった「パリっ子」は、マネの時代より50年ほども前に江戸は「江戸っ子」と称し「意気な深川、いなせな神田」の気質のなかで、浮世絵なるものが登場し、庶民を題材にした歌舞伎芸人はおろか街の美人画、花街の芸者や花魁に、旅の風景画に戯画や春画まで出揃った庶民文化が成り立っていた。しかも印刷とは云え木版画の値段は、お蕎麦(2x8蕎麦=16文)一杯の約16文・・・
欧米一流美術館に20万枚と云われる程出回った浮世絵の「江戸っ子」文化は、デモクラシーの民衆国家とは程遠い、徳川幕府の中央集権国家でありながら、他国にその庶民の闊達な自由さを振りまいていく。そこにその絵のもつ「誰のための絵か」が刷り込まれ、もともと幕府や武士、貴族のものであった「美」を、民衆の「浮世絵」と云う手法を持って引きずり下ろし、美を大衆のものに確立した江戸っ子たちの江戸文化の凄い根底が横たわっている・・・
「浮世絵」の魔術・・・
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しかも浮世絵の題材には、人生を謳歌する「市民/庶民」なるものが存在し、北斎漫画に至って「はっつぁん、熊さん」的庶民の職業人が描かれ、それらの人物が「江戸っ子」ならば、マネが描きだしたのは、お堅いアカデミー画家の絵ではなく、あるがままのごく普通のパリ市民の「パリっ子」と云える。その後の後輩のセザンヌの「水浴」などに裸婦の持つ意味は引き継がれ、少し時代が進めばロートレックのムーランルージュの絵へと発展し「誰のための絵か?」が、大衆や市民中心へ移行する大きな分岐点だったに違いなく、浮世絵とマネの共通項は「市民/庶民」の様だ・・・
その浮世絵の表現手法は、物に光りが当たると、物が自らの凹凸から落とす陰(Shade)が生まれ、そしてその物に当たった光が他の物に落として影(Shadow)を生み出し、物体同士の前後左右の位置関係がわかり、人はその空間を把握するが、浮世絵にはその陰(Shade)や影(Shadow)は無い、マネもそれらを極力取り除き、特に1865年のスペイン旅行でのベラスケスの影響も受けた「笛を吹く少年」などによく現れている・・・
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「笛を吹く少年」(1866年、オルセー美術館蔵、サロン落選) →
パリ市民 =「パリっ子」・・・
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17世紀フランス革命と共に、バロック様式に塗り重ねるかの様にパリは「ロココ様式:Rococo」なる独自の文化を生み、1725年にルーヴル宮殿で開かれた美術展「サロン・ド・パリ:Salon de Paris」の公共の展覧会となるサロン(官展)もマネの頃には、貴族から新興ブルジョアへと移行し始める。巷でも1858年シャルル・フレデリック・ウォルトは、リュ・ド・ラ・ペ通り(Rue de la Paix)にクチュール店を創設し、新興ブルジョアなどの観客に販売しパリのオート・クチュールが誕生する。1582年創業のセーヌ川のほとりの貴族たちのトゥール ダルジャン(La Tour d'argent)から始まったとされる生粋のフランス料理のレストランも、革命によって職を失った宮廷に仕えていた料理人が独自の店を開業し、レストランやフランス料理は大衆化され、1825年に「美味礼讃」を著す食通のジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン(Jean Anthelme Brillat-Savarin)の様にフランス料理は一般市民に広く浸透する・・・
文学も、1857年ボードレールの「悪の華」6編が反道徳的であるとして、有罪・罰金処分を受け、該当詩の削除を命ぜられる。1856年刊行のフローベールの「ボヴァリー夫人」も翌1857年に風紀紊乱の罪で起訴されたが無罪判決を勝ち取り、同年4月にレヴィ書房より出版されるやたちまちベストセラーとなった。懐疑的・退廃的な思潮の混迷のなかで、死やエロスにこだわる「退廃/デカダンス:décadence」や、刹那的な「耽美主義」が交錯する時代の中で今の真実を見つめる所から、綺麗ごとではないありのままの「パリっ子」たちが時代の中心に登場する・・・
そして時代は、経済格差以上に価値観の格差をも生みながらも・・・
今を生きている21歳のヴィクトリーヌ・ムーランのパリジェンヌをモデルに描いた「オランピア」の視線の先には混迷の人々の時代を映すありのままの人間の姿が描かれていく・・・
紳士ずらをし、過去のモラルの表面ずらを装う偽善で生きるのでは無く、
過去の美しく創られた神話や宗教の裸体の仮面を剥がし取リ、
赤裸々な現実そのもの、それはパリジェンヌの「裸のリアリズム」
しかもそれは、時代を暴いた真実の姿を描いた一枚・・・
でもそこには計り知れない現像と虚像、表面と内面、真実と虚実、表と裏が横たわる・・・
まるで明日をも読み取れない言葉の様に、聞き取れないざわめく店内、
こちらを見つめ、問いかける客の顔を見ているのか見てないのか、虚ろな実像のバーテンダーの女性、
その向こうに騒めく店内に写し出された鏡の虚像・・・
"Un bar aux Folies Bergère" ● ↑(画面クリックで拡大します・・・) 1882年|油彩、キャンバス|92 cm × 130 cm|コートールド・ギャラリー ロンドン|Courtauld Gallery, London 1882年サロン入選 https://ja.wikipedia.org/wiki/フォリー・ベルジェールのバー エドゥアール・マネ:Édouard Manet (1832年~1883年) |
マネは、16歳の1880年頃にブラジルで感染した梅毒の為、壊疽(えそ)が進み左脚を切断するが、
経過は悪く高熱に浮かされた末のこの絵を制作後の1883年、
51歳の生涯を閉じパッシー墓地に埋葬された・・・
マネは呟く...「私は時代の中で私が見たものを簡素に描いたに過ぎない・・・」
そしてマネの「オランピア」の絵の来歴は、
マネの死後の1890年、未亡人にアメリカへ売却されるのを印象派たちの画家、
モネらの募金運動で難を逃れ今はオルセー美術館に飾られている。
しかしその絵は、時代の今を生きる本当の「パリっ子」が描かれた瞬間であり、
この時、オランピア(Olympia)はパリジェンヌ"Parisienne"になったのかも知れない・・・
Bonjour!! Mademoiselle"Olympia"
エドゥアール・マネ:Édouard Manet (1832年~1883年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/エドゥアール・マネ
(以下・参考サイト)
https://ja.wikipedia.org/wiki/エドゥアール・マネ
https://fr.wikipedia.org/wiki/Édouard_Manet
N°5 rue Bonaparte
Plaque au no 5 rue Bonaparte
https://www.google.co.jp/maps/search/Plaque+au+no+5+rue+Bonaparte/
エドゥアール・マネ:Édouard Manet (1832年~1883年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/オランピア_(絵画)
ヴィクトリーヌ・ムーラン(Victorine Meurent, 1844年〜1927年)
フランスの著名なモデルであり、女流画家である。844年、パリに生まれる。父はブロンズ彫刻の色付けを行う職人、母は帽子職人であった。マネのオランピアなどの数作品のモデルとなる・・・
「ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像」1862年頃、油彩、キャンバス
42.9 × 43.8 cm。ボストン美術館蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィクトリーヌ・ムーラン
『ウルビーノのヴィーナス』 (伊: Venere di Urbino、英: Venus of Urbino) はイタリアの巨匠ティツィアーノが1538年に描いた、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている絵画。豪奢なルネサンス様式の宮殿を背景に、長椅子かベッドに寄りかかる若い女性の絵画で、ローマ神話のヴィーナスを描いた作品とされる。ポーズはジョルジョーネの『眠れるヴィーナス 』を模倣したものと言われる・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウルビーノのヴィーナス
エドゥアール・マネ Edouard Manet|1832-1883 | フランス | 印象派
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/manet.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/草上の昼食
https://ja.wikipedia.org/wiki/エミール・ゾラの肖像
https://ja.wikipedia.org/wiki/フォリー・ベルジェールのバー
パリジェンヌ(英語表記)〈フランス〉Parisienne
パリに生まれ育った女性。パリ娘。
https://kotobank.jp/word/パリジェンヌ-605296
パリジャン(〈フランス〉Parisien)
https://kotobank.jp/word/パリジャン-605301#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
江戸っ子(えどっこ、江戸っ児)とは、徳川時代の江戸で生まれ育った住民を指した言葉で、特定の気風を持った者を指す事が多い・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸っ子
サロン・ド・パリ(フランス語: Salon de Paris)は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが18世紀にパリで開催するようになった公式美術展覧会・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/サロン・ド・パリ
ボナパルト通り
https://en.wikipedia.org/wiki/Rue_Bonaparte
ノラの絵画の時間
http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1017151553.html
http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1017225704.html
http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1017381447.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/クロード・モネ
https://ja.wikipedia.org/wiki/草上の昼食_(モネの絵画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/パサージュ
娼婦街
http://www.seinan-gu.ac.jp/gp/french_trip/2010/report05.html
https://ameblo.jp/vingt-sann/entry-12197102401.html
パリ、娼婦の街 シャン=ゼリゼ
http://shoten.kadokawa.co.jp/tachiyomi/bunko/index.php?pcd=321305000547
https://4travel.jp/travelogue/11214832
https://matome.naver.jp/odai/2136677785624687301
http://www.wikiwand.com/ja/近代公娼制
https://ja.wikipedia.org/wiki/パリ#.E8.AA.9E.E6.BA.90
http://www.wikiwand.com/ja/産業革命
https://shakaigaku.exblog.jp/i15/
Café Guerbois
https://fr.wikipedia.org/wiki/Café_Guerbois
http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/1002/special01_sub06.html?height=310&width=750
散歩Q(1-1) カフェ・ゲルボワ跡 Ancien emplac ement du café Guerbois(クリシー広場~ユーロプ界隈)
http://promescargot.blogspot.com/2016/05/1-1-ancien-emplacement-du-cafe-guerbois.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/シャルル・フレデリック・ウォルト
トゥール ダルジャン(La Tour d'argent)は、フランス パリ5区、セーヌ川対岸シテ島ノートルダム大聖堂を見渡すトゥルネル河岸通り15-17番地に本店・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/トゥール・ダルジャン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン
https://ja.wikipedia.org/wiki/サロン・ド・パリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランスの鉄道史
https://ja.wikipedia.org/wiki/パリ北駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/シャルル・ボードレール
https://ja.wikipedia.org/wiki/悪の華
https://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・フローベール
https://ja.wikipedia.org/wiki/ボヴァリー夫人
https://blog.goo.ne.jp/gloriosa-jun/e/71daf96748daea666dd9de47686d917d
https://ja.wikipedia.org/wiki/浮世絵
https://ja.wikipedia.org/wiki/辰巳芸者
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